平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。」この、日本国憲法前文の理念こそ、第9条の力の根源である。
第9条(1項、2項)は、アジアの民衆に対する「謝罪宣言」であり、日本の民衆の「決意表明」である。
教科書から「慰安婦」の記述を削除し、強制連行は根拠がないと主張、大東亜戦争を賛美して、君が代と日の丸を強制する国家権力の先頭に立っているのが、安倍晋三である。 君が代を、歌う声が小さいと子供の口に、汚い手を突っ込んで唱わせた東京都教委を支えているのが安倍である。
しかしこの、君が代訴訟で、まだ憲法第19条(思想,良心の自由)と教育基本法第10条、1項(不当な支配)が生きていた為に、この国家権力(直接には東京都)の行為を、地裁は「違憲」と断ずることができた。 今これと同じように、憲法第9条2項(軍隊はこれを保持しない)は、自衛隊を「憲法」上の裏ずけのない「軍隊」としている為、米国との軍事同盟では、集団的自衛権の行使と言う戦争行為を制約し、今のところ直接的には、人を殺す集団にさせないのである。(後方支援はやっているが)
憲法第9条は、侵略行為の反省の上に築かれた、アジアの民衆に対する歴史的な「謝罪宣言」とも言うべきものであり、又、二度と日本天皇制軍国主義・帝国主義の復活を許さない!と言う日本の「民衆の決意表明」でもあるのだ。 中国、朝鮮、東南アジアのひとびとは、この9条を、「平和条項」と呼んで讃えてきてくれた。 この条項を「捨てる」ことは、アジアの民衆にたいして、日本天皇制帝国主義の歴史を、正当化するものになるのである。
第9条の理念の対極にあるものは、アメリカの非人間的なイラク戦争である。
安倍自民と日経連は、改憲を正当化するために、「占領軍の押し付け憲法だから自主憲法が必要だ。」とか「現実と乖離した、空洞化憲法を、実体化するだけだ。」とさけんでいる。 日本列島がアメリカの植民地の様に米軍基地で占領されている状況なのに、そして、この改憲こそアメリカの要求でもあるのに、尊王民族主義者として、安倍やブッシュに文句の一つさえよう言わない、「国粋主義」が聞いてあきれる、ていたらくな日の丸右翼の街宣車から流れるアジ演説と、どこがどう違うのだ。
「平和憲法」を亡き者にしようと、法を絶えず蹂躙することによって「空洞化」を企んで来たのは、他でもなく国家権力なのだ。「押し付け」と「空洞」が問題なのではなく、その憲法が持つ理念と、それを壊そうとするもう一つの理念が問題なのである。 憲法前文は述べる。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。」 この決意と理念こそ、第9条(1項、2項)が力を持つ拠り所なのである。 この、軍事プレゼンスの対極にある平和の理念こそ、現実の国際社会で最も生き生きとした力をもっていることは、六カ国協議2・13共同声明の道筋があきらかにしている。 この対極こそ、イラク戦争で、人間性腐敗のおぞましい姿をさらしている、アメリカの政策にいきつくのである。
安倍自民と日経連は、「日本国憲法にもとずく平和立国」を拒否し、国際政治に対する日本の軍事プレゼンスの強化の道を選択したのだ。それは、何度も繰り返すが、国内の民衆に対する強権支配の道具となり、国家統合の思想を生む。
たとえば、「徴兵制」で、自分の息子たちが兵士として戦場に送られ、「国家の人質」としてとられた時、無数の「愛国者」を生み出して来た事を、日本の歴史が、教えているのではないか?治安法規や有事法規、国家による教育介入・統制はすでに始まっている。
改憲は、日本資本家の、私的利益のための軍事国家化である。
安倍自民と日経連がいま、日本の政治と社会と法体系を、根本的に「軍事国家」へ向けて押し出そうといることに、おおくの国民は目くらましされている。目をくらます為に矢継ぎ早に,でっち上げ公聴会や、御用諮問会議を開き短期間の国会審議で,憲法を否定する諸法規をつみかさねてきたのだ。
日本の資本家階級は、アジアと世界の資本主義市場で独立した(日本独自に)軍事的プレゼンスを持ちたいと考えているのだ。(安倍は最近各種談話で、祖父の遺志として、日本の米国への軍事的依存が、政治の弱体化を生んでいる。60年安保は、片務的であるとの趣旨で、日本の武装化を論じている事に注意を向けなければならない。) 国民総生産世界第2位の日本は、例えば、アジアの中国だけをとっても、現在、約2万社と言われる日本企業が進出している。「国益」と称する日本資本家どもの私的利益の防衛の為にも、それが必要だと考えているのだ。 改憲は、このプロセスの中にある。
日本資本主義と安倍自民は、在日米軍5万数千名もの兵士と列島128箇所の巨大米軍基地を、自衛隊にむすびつけ、米軍の新たな世界的再編への統合の中に、自らの利益を展望しているのだ。
「在日米軍再編」は、日本と自衛隊を、アメリカの世界戦争戦略に組み込み、日本列島を軍事列島に変え、平和憲法体制を破壊しようとするものである。
(憲法シリーズ1)でも触れた「在日米軍基地再編」問題を通して、今少し詳しく、日本の政治社会状況が、根本的に変えられようとしている現実を、直視しなければならない。 アメリカ・ブッシュ政権は、「国防軽視」のクリントン批判により、主に軍事産業を基盤としたネオコングループによって支えられ登場したが、2004年11月米軍の軍事戦略を50年ぶりに見直し、冷戦時代に作られた体制を同盟国を巻き込んで再編しようとして来た。即ち、基地のある近くで戦争をすると言うのでなく、「基地から遠方かもしれない場所へ、戦力を投射出来るように部隊を再配備する」(2004年6月23日・米下院軍事委員会でのダグラス・ファイス国防次官、毎日新聞)と、言うのである。
日本の、国家権力寄りの、国際政治学者も、「北東アジアから中東にかけて、いわゆる不安定な弧に焦点をうつして、むしろ脅威に対しては早い段階で、出来れば予防的に芽を摘み取ろうとする予防力としての性格を強めている。存在(プレゼンス)による抑止を前提としていた冷戦期に比べて戦術思想そのものが攻撃的活動的である。」(2004年12月2日付け 日本経済新聞、中西寛 京都大学教授)
彼の米軍再編の意図の分析はそのとうりであろう。ここで言う「予防力」とは、先制攻撃のことである。アメリカは、2001・9・11以降、テロを国家統合のイデオロギーとして最大限に利用しながら、世界市場や資源戦争に、軍事力展開の再編をはかった。 日本もまた、アメリカとの経済的対立・市場争奪に於ける危機的対立の回避や調整としての「日米同盟重視」を図らざるを得ないのである。それが結果として、一見「従属的な米国追従外交」や、「独立国としては考えられぬ半恒久的な米軍基地」となって現出しているが、それは働く民衆の犠牲の上に、日本の資本家階級の利害とアメリカの利害が、今のところ一致しているからに他ならない。
2004年11月 小泉政権時、彼の私的諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」(荒木報告)に沿って、「防衛計画大綱」が提示された。
それは、ブッシュ政権の世界的な軍事態勢見直しに沿って日米軍事同盟再編に対する日本自衛隊の全面的な合流を狙ったものである。「防衛計画大綱」は、言う「米軍の軍事的プレゼンスは、アジア太平洋の平和と安全に不可欠である。国際テロに対応し我が国に脅威が及ばないようにする為に・・・米国との戦略的対話に取り組む」と。日本は、テロを口実に、アジアに対して対話と協調ではなくアメリカの核と軍事力、そして自らの軍事態勢の強化で望むことを宣言しただけではない。米軍とともに先制攻撃も辞さないその世界的な軍事再編に全面協力を約束したのだ。
これは次ぎの日米安全保障協議会(scc)に向けての、米軍再編に対する日本側の基本方針を示すものであった。
国際法学者・中西氏は、憲法を否定して集団的自衛権を持つべきと主張している。
(注)
集団的自衛権とは、軍事同盟を結ぶ相手国への攻撃を、自国への攻撃とみなす事により第三国への戦争行為に参戦する義務が生じる。従って自国の軍隊の海外派兵(侵略行為)を合理化するものである。憲法9条2項が、その歯止めとなっているのである。
この「防衛計画大綱」が策定される直前に、国際政治学者、中西寛氏は、「在日米軍再編」に対する日本政府の理解が、不十分だと、(日本の国家権力の視点から)、「米戦略の根本的変化に対する意図をつかんで対応せよ。」とハッパをかけていた。
その一文の中で「米国にとって最大の問題は、日本側が常に取り上げる法制的な制約だろう。集団的自衛権の不行使の憲法解釈や、武器輸出三原則などは、作戦計画上大きな障害になり、時代遅れの発想にもとずいた制約と見なされよう。訓練などの基地運用についても、受け入れるからには米軍に対する運用上の障害は、最低限にとどめるべきだと言う原則論が強まることになる。
更に、極東条項や事前協議と言った枠組みをもつ現行の日米安保条約そのものも、冷戦時代の遺物であり現在の条件に適合しておらず、可能なら改定が望ましいと言うことになろう。・・・・程無く確定される、新防衛計画大綱下での日本の防衛政策において、作戦や情報などで米軍との緊密な連携を期待するであろう。」(同上)引用が少々長くなったが、在日米軍再編の狙いを、日本の全面的な協力の下に貫こうとするアメリカが、日本国憲法と、現行安保条約による制約と枠組みを「障害」とみなしており、日本政府は其れに適切な対応をせよと言う、この国際法学者の立場は、日米両国家権力による法の蹂躙の是認を前提として、在日米軍の世界侵略基地化と、日本の軍事国家化の法的整理を、理論化しようとしている点において、反民衆的であると言わざるを得ない。
中西氏は、日本列島を基地として在日米軍が世界展開する上で、日本の憲法と国際法・日米安保条約が「障害」となることに注意を喚起はするが、 法の枠組みの中でしか、日本での駐留を決して許されない米軍の「日本の基地から世界中どこにでも投射出来る部隊の配置」や、自衛隊の協力などは、「極東条項」、「基地使用」、「事前協議」を破り、憲法にもとずく「武器三原則」の理念を踏みつけ「集団的自衛権」を否定する憲法に対する許されぬ違法行為であり、「法冶国家」として認められるものではないとは、一言も言わないのだ。
憲法も国際法も無視して、日本列島を総基地化して、世界中に核武装した爆撃機をとばし、原子力空母を繰り出す米軍の存在と、それに協力する自衛隊と言う、許されぬ法の破壊こそ、まず前提的に批判し糾弾すべきではないのか?
中西氏は、「時代遅れにもとずいた制約」「時代遅れの発想」「冷戦時代の遺物」と、「アメリカがみなすであろう。」と言う文脈で、彼自身が日本の平和憲法の理念を口汚くこきおろしているのだ。この、「時代遅れで冷戦の遺物」こそ今日のアメリカ帝国主義と日本帝国主義の、一連托生の「軍事国家主義」ではないのか? かれは、文章の最後で、「日本の安全保障にとって北朝鮮や中国の動向を考えれば、米国との軍事協力関係が根幹を成す事も動かしようもない現実である。」(同上)成るほど、この「学者」が、権力の代弁者であることは、動かしようもない現実であることがよくわかった。
日米安保体制化で、権力によって「法の空洞化」がすすむ現実を、告発する事こそ学者の役割ではないのか。働く民衆は、日々の肉体の再生産に追われ、生活に結びついた問題には敏感だが政治問題は理解するには時間がない。権力は、常に虚偽の脚色をして、真実の姿を隠してきた。
生活の格差は同時に知の格差も強いられるのだ。「学者」と言うものは、この働く民衆の為にこそ存在すべきなのだ。
日本国憲法の理念こそ「平和の構築」である。
アメリカが、憲法の縛りによって集団的自衛権を行使出来ない自衛隊や、基地規定、極東条項の制約のある現行軍事同盟を「時代遅れの軍事同盟」と言うなら、我々は、民衆の立場から、「日米軍事同盟そのものが時代遅れだ」と言わなければならない。日本は、安保条約破棄・日米軍事同盟の解体のうえに、東北アジアの平和構造の構築をアジアの諸国とともに、進めていく事こそ、新しい「平和の安保体制」であるとかんがえるのである。
中西氏は、「日本の安全保障にとって・・・米国との軍事協力が根幹をなす。」と言うが、「安全保障」とは軍事力のことだけではない。 安保は、平和の安保を含む「政治の目的」であって手段ではない。彼はこの政治の目的を、「軍事力で実現する」と言っているのと同じだ。しかも侵略的・戦時的・重武装国家アメリカとである。
1831年プロシャの参謀長・カルル・フォン・クラウゼヴィッツは、その名著「戦争論」の中で言っている。「戦争とは敵を強制して、我々の意思を遂行させる為に用いられる暴力行為である。その行為には如何なる限界もない。一方の暴力は他方の暴力を生み、そこから生ずる相互作用は理論上その極限に達するまで止むことはない。」
しかもこの戦争とは、「単に政治行動であるのみならずまったく、政治の道具であり、政治的諸関係の継続であり、他の手段をもってする政治の実行である。政治的意図は目的であって、戦争は手段であり、そして如何なる場合でも、手段は目的を離れては考えることは出来ない。」(昭和40年、徳間書店版 kvクラウゼヴィッツ) 中西が、「安保」と言う政治の目的を「軍事協力が根幹」と言うとき、それは政治の一手段に過ぎない戦争を、最も基本的手段と考える戦争至上主義者・アメリカ帝国主義者の視点である。軍事力でしか「安保」を保障出来ないとしたら「暴力は暴力を生み理論上その極限に達するまで止むことはない。」イラクの悲劇がそれではないか?「核抑止力」も、ただ核の保有数と新たな核開発をきそうだけではないか?
アメリカは核弾頭を7000発も所持してどうするつもりか。
日本の平和憲法の理念こそ世界の平和構築の「安保条約」であることを、われわれは強調しなければならない。軍事力で何でも出来ると思ったら大間違いだ。世界一の軍事力を持つアメリカが、どうしてヴェトナム民族に勝てなかったのか、弱小国家北朝鮮が、何故アメリカや、日本の反共軍事包囲網の中でもちこたえているのかをかんがえればわかることである。
在日米軍の再編をめぐる論議で明らかになったことは、逆に言えば(民衆の側から言えば)、権力による法の空洞化がありながら、我々にはなお、日本国憲法と言う大きな砦があるということである。(続)
헌법시리즈 2
「평화를 사랑하는 국민들의 공정(公正)과 신의를 신뢰하며, 우리의 안전과 생존을 보지(保持)하고자 결의한다」이 일본국헌법 전문(前文)의
이념이야말로 제9조가 가지는 힘의 근원이다.
제9조(1항, 2항)은 아시아 국민들에 대한 「사죄선언」이며, 일본 민중의 「결의표명」이다.
교과서에서 「위안부」에 대한 기술을 삭제하고, 강제연행은 근거가 없다고 주장, 대동아전쟁(태평양 전쟁)을 찬미하며
‘기미가요(君が代)’와 ‘히노마루(日の丸)’를 강제하는 국가 권력의 선두에 서 있는 것이 아베 신조(安部晋三)다. 기미가요를 부르는
목소리가 작다며 아이들의 입에 더러운 손을 들이밀며 부르게 했던 도쿄도교육위원회(東京都教育委員会)를 지원하고 있는 것이 아베다.
그러나 이 기미가요 소송에서 아직 헌법 제19조(사상, 양심의 자유)와 교육기본법 제10조 1항(부당한 지배)이 유효한
관계로 지방법원은 이 국가권력(직접적으로 말하자면 도쿄도)의 행위를 「위헌」이라 판결할 수가 있었다. 이와 마찬가지로 현행 헌법
제9조 2항(군대는 이를 보지하지 않는다)은 자위대를 「헌법」상의 뒷받침이 없는 「군대」로 다루고 있기에 미국과의 군사동맹에서는
집단적자위권의 행사라고 하는 전쟁행위를 제약하고, 직접적으로는 사람을 죽이는 집단으로는 다루고 있지 않다(후방지원은 하고 있다).
헌법 제9조는 침략행위의 반성 위에 만들어진 아시아 민중에 대한 역사적인 「사죄선언」이라고도 할 수 있는 것이며,
두 번 다시 일본 천황제 군국주의・제국주의의 부활을 허락하지 않는다는 「일본 민중의 결의 표명」이기도 하다. 중국, 남・북한,
동남아시아 사람들은 이 9조를 「평화조항」이라 부르며 높이 평가해 주었다. 이 조항을 「버린다」는 것은 아시아 민중에 대해 일본
천황제 제국주의의 역사를 정당화하는 것이 되어버린다.
제9조 이념의 대극(対極)에 있는 것은, 미국의 비인간적인 이라크 전쟁이다.
아베 자민(자유민주당의 略)과 일경련(日本経営者団体連盟의 略)은 개헌을 정당화하기 위해 「점령군이 강제한 헌법이므로
자주헌법이 필요하다」던가 「현실과 괴리된 공동화헌법(空洞化憲法)을 실체화하는 것뿐이다」라고 부르짖고 있다. 일본열도가 미국의 식민지처럼
미군기지로 점령된 상황임에도, 그리고 개헌이야말로 미국의 요구임에도, 존왕민족주의자(尊王民族主義者)로서 아베나 부시에게 한 마디의
불만 조차 말하지 못하는,「국수주의(国粋主義)」가 듣기만 해도 어처구니가 없을, 볼썽사나운 히노마루 우익의 거리 선전차량에서 흘러나오는
선동(煽動)연설과 무엇이 다르단 말인가.
「평화헌법」의 존재를 무시하고 법을 끊임없이 유린함으로써 「공동화(空洞化)」를 꾀해 온 것은 다름 아닌 국가권력이다.
「강요」와 「공동」이 문제가 아니라 그 헌법이 가지는 이념과 그것을 없애려고 하는 또 하나의 이념이 문제인 것이다. 헌법 전문은
말한다. 「일본 국민은, 영구한 평화를 염원하고 인간 상호간 관계를 지배하는 숭고한 이상을 깊이 자각하며, 평화를 사랑하는 국민들의
공정과 신의를 신뢰하며, 우리의 안전과 생존을 보지(保持)하고자 결의한다(日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した)」
이 결의와 이념이야말로 제9조(1항, 2항)가 힘을 가지는 근거인 것이다. 이 군사존재의 대극(大極)에 있는 평화 이념이야 말로
현재 국제사회에서 가장 왕성한 힘을 가지고 있음은, 6자 협의 2・13 공동성명의 흐름이 분명히 보여주고 있다. 이 대극이야말로
이라크 전쟁에서 인간성 부패의 무서운 모습을 드러내고 있는 미국의 정책에 따라가는 것이다.
아베 자민과 일경련은 「일본국헌법에 기초한 평화로운 나라의 건국」을 거부하고, 국제정치에 대한 일본의 군사적 존재
강화의 길을 선택한 것이다. 몇 번이나 이야기 하였으나, 이는 일본 민중에 대한 강권지배의 도구가 되어 국가통합의 이상을 낳을
것이다.
예를 들어, 「징병제」로 인해 우리의 자식들이 병사로 전쟁터에 보내져 「국가의 인질」로 다루어 졌을 때, 무수한 「애국자」를
낳아 왔던 것을 일본의 역사가 가르쳐 주고 있지 않은가? 치안법규나 유사법규, 국가에 의한 교육개입・통제는 이미 시작되고 있다.
개헌은 일본자본가의 사적 이익을 위한 군사국가화다.
현재 아베 자민과 일경련이 일본의 정치, 사회 그리고 법체계를 근본적으로 「군사국가」를 향해 바꿔가려고 하는 것에 대부분의
국민들은 속고 있다. 눈 속임을 위해 끊임없이 날조공청회나 어용자문회의를 열어 단기간의 국회심의로 헌법을 부정하는 여러 법규를
점차 늘려 온 것이다.
일본의 자본가 계급은 아시아와 세계의 자본주의시장에서 독립된(일본 독자적인) 군사적 존재를 가지고 싶어한다(최근 아베는
각종 담화에서 조부{기시 노부스케(岸信介) 전 수상}의 유지(遺志)로써의 일본의 미국에의 군사적 의존이 정치의 약체화를 낳고 있으며,
60년대 안보는 편무적이라는 취지에서 일본의 무장화를 논하고 있는 것에 주의를 기울이지 않으면 안 된다). 국민 총 생산 세계
제2위인 일본은 현재 중국에 약 2만개 정도의 일본 기업이 진출해 있다. 「국익」이라 칭하는 일본자본가들의 사적 이익의 방어를
위해서도 그것이 필요하다고 생각하고 있는 것이다. 개헌은 이 과정의 연장선상에 있다.
일본자본주의와 아베 자민은 주일미군 5만 수 천명의 병사와 일본열도 128개소의 거대 미군기지를 자위대와 연계시켜
미군의 새로운 세계적 재편에의 통합 속에서 스스로의 이익을 전망(展望)하고 있는 것이다.
「주일미군재편」은 일본과 자위대를 미국의 세계전쟁전략에 편입시켜, 일본열도를 군사열도로 바꿔 평화헌법체제를 파괴하려고 하는 것이다.
‘헌법시리즈 1’에서도 다루었던 「주일미군 기지재편」문제를 통해 보다 더 자세히 일본의 정치사회 상황이 근본적으로
바뀌려 하고 있는 현실을 직시해야 한다.
미 부시 정권은 「국방경시」의 클린턴 비판에 의해 주로 군사산업을 기반으로 한 네오콘 그룹의 지지를 받으며 등장했지만,
2004년 11월 미군의 군사전략을 50년 만에 재검토하여 냉전 시대에 만들어진 체제를 동맹국을 끌어들여 재편성하려고 해 왔다.
즉 기지가 가까운 곳에서 전쟁을 하는 것이 아니라, 「기지에서 멀리 떨어진 장소에 전력을 투입할 수 있도록 부대를 재편한다」(2004년
6월 23일, 미 하원 군사위원회에서의 더글러스 화이스 국방차관, 마이니치 신문)는 것이다.
일본의 국가권력에 기운 국제정치학자도 「동북아시아에서 중동에 걸친 소위 불안정한 활에 초점을 옮겨, 외부의 위협에
대해서는 초기에, 가능하다면 예방 차원에서 위협의 싹을 없애버리는 예방력(予防力)으로서의 성격을 강화시키고 있다. 존재(Presence)에
의한 억지를 전제로 하고 있는 냉전기와 비교해 전술 사상 그 자체가 공격적・활동적」이라 말하고 있다(2004년 12월 2일付,
일본경제신문, 나카니시 히로시(中西寛) 교토대학 교수).
나카니시의 군사재편 의도 분석은 맞는 말이다. 여기에서 말하는 「예방력」이란 선제공격을 말한다. 미국은 2001년
9・11 동시다발테러 이후 테러를 국가통합의 이데올로기로써 최대한 이용하며 세계시장이나 자원전쟁에 군사력 전개재편을 시도했다.
일본도 미국도 경제적 대립・시장쟁탈에 있어서 위기적 대립의 회피나 조정으로서의 「일미동맹중시」를 꾀하지 않으면 안 되는 것이다.
그것이 지금 결과적으로 언뜻 보기에 「종속적인 미국추종외교」나 「독립국으로서는 생각할 수 없는 반영구적인 미군기지」의 형태로 나타나고
있으나, 이는 일하는 민중의 희생 위에 일본의 자본가계급의 이해와 미국의 이해가 현재 일치하고 있기에 다름 아니다.
2004년 11월 고이즈미(小泉純一郎) 정권 당시, 고이즈미의 사적 자문기관인 「안전보장과 방위력에 관한 간담회」의
보고{아라키(荒木) 보고}에 따라 「방위계획대강(防衛計画大綱)」이 제시되었다.
이는 부시 정권의 세계적인 군사태세 재검토에 따라 일미군사동맹재편에 대한 일본 자위대의 전면적인 합류를 노린 것이다.
「방위계획대강」은 「미군의 군사적 존재는 아시아 태평양의 평화와 안전에 불가결하다. 국제 테러에 대응하고 우리 나라(일본)에 위협이
미치지 않도록 하기 위하여…… 미국과의 전략적 대화(対話)에 전념한다」고 말한다. 일본은 테러를 구실로 아시아에 대해 대화와 협조가
아닌, 미국의 핵과 군사력 그리고 일본의 군사태세의 강화로 바라는 바를 선언한 것 뿐만이 아니다. 미군과 함께 선제공격도 불사하겠다는
세계적인 군사재편에 전면 협력을 약속한 것이다.
이는 다음에 있을 일미안전보장협의회(SCC)를 향한, 미군재편에 대한 일본측의 기본방침을 나타낸 것이었다.
국제법학자 나카니시는 헌법을 부정하여 집단적자위권(集団的自衛権)[1]을 가져야만 한다고 주장하고 있다.
이 「방위계획대강」이 책정되기 직전에 국제정치학자 나카니시 히로시(中西寛)는 「주일미군재편」에 대한 일본정부의 이해가
불충분하다며(일본의 국제권력 시점에서), 「미국 전략의 근본적 변화에 대한 의도를 파악하여 대응하라」고 강하게 의견을 표명했다.
나카니시의 이 글 안에서 「미국에 있어서 가장 큰 문제는 일본측이 항상 거론하는 법제적(法制的)인 문제일 것이다.
집단적자위권 불행사의 헌법해석이나, 무기수출 3원칙 등은 작전계획상 큰 장해(障害)가 되고, 시대에 뒤떨어진 발상으로 기인한 제약으로
간주될 것이다. 훈련 등의 기지운용에 관해서도, 이왕 받아들일 것이라면 미군에 대한 운용상의 장해는 최소한에 그치도록 해야만 한다고
하는 원칙론이 더욱 힘을 얻게 된다.
또한 극동조항이나 사전협의와 같은 틀을 가진 현행 일미안보조약 그 자체가 냉전시대의 유물이며 현실 조건에서는 적합하지 않기에,
가능하다면 개정하는 것이 바람직하다고 할 수 있을 것이다……머지않아 확정 될 신방위계획대강 하에서의 일본의 방위정책에 있어서,
작전이나 정보 등에서 미군과의 긴밀한 연대를 기대하게 될 것이다」(同上) 인용이 꽤 길어졌으나, 주일미군재편의 의도를 일본의 전면적인
협력 아래에서 관철시키려는 미국이 일본국헌법과 현행 안보조약에 의한 제약과 틀을 「장해」로 간주하고 있고, 일본정부는 이에 적절한
대응을 하라는 이 국제법학자의 입장은, 일미 양 국가 권력에 의한 법 유린(蹂躪)의 시인을 전제로 하여 주일미군의 세계침략기지화와
일본의 군사국가화의 법적 정리를 이론화하려고 하고 있는 점에 있어서 반민중적이라 할 수 밖에 없다.
나카니시는 일본열도를 기지로 하여 주일미군이 세계로 작전을 전개하는 데 일본의 헌법과 국제법・일미안보조약이 「장해」가
된다는 것에 주의를 환기시키고는 있으나, 법의 틀 안에서밖에 일본에서의 주류를 결코 용납할 수 없는 미군의 「일본의 기지에서 전
세계 어느 곳에라도 출진 가능한 부대의 배치」나 자위대의 협력 등은 「극동조항」, 「기지사용」, 「사전협의」을 파괴하고, 헌법에
기초한 「무기3원칙」의 이념을 짓밟아 「집단적자위권」을 부정하는 헌법에 대한 용납할 수 없는 위법행위이며, 「법치국가」로서 인정할
수 없는 것이라고는 단 한마디도 하지 않는다.
헌법도 국제법도 무시하며 일본열도를 총 기지화하여 전 세계에 핵 무장한 폭격기를 날려보내고, 원자력 항공모함을 계속
투입하는 미군의 존재와 그에 협력하는 자위대라고 하는 용납할 수 없는 법의 파괴야말로 우선적으로 비판하고 규탄해야만 하는 것이
아닌가?
나카니시는 「시대착오에 기인한 제약」,「시대에 뒤떨어진 발상」,「냉전시대의 유물」 그리고 「미국이 간주할 것이다」라는
문맥을 통해 스스로가 일본의 평화헌법의 이념을 더럽히고 있는 것이다. 이 「시대착오적인 냉전의 유물」이야말로 오늘날의 미국 제국주의와
일본제국주의의 일련탁생(一蓮托生)의 「군사국가주의」가 아닌가? 그는 글의 끝 부분에서 「일본의 안전보장에 있어서 북한이나 중국의
동향을 생각한다면, 미국과의 군사협력관계가 근간을 이루는 것도 부정할 수 없는 현실」이라 논하고 있다(同上). 과연, 이 「학자」가
권력의 대변자임은 부정할 수 없는 현실임을 잘 알았다.
일미안보체제화에서 권력에 의해 「법의 공동화」가 진행되고 있는 현실을 고발하는 것이야말로 학자의 역할이 아닌가. 민중들은
매일같이 이어지는 육체의 재생산에 쫓겨 생활에 결부된 문제에는 민감하지만, 정치문제는 이해할 시간이 없다. 권력은 항상 허위의
각본으로 진실을 숨겨왔다.
생활의 격차는 동시에 지식의 격차도 강요 당하는 법이다. 「학자」라 함은 이러한 민중을 위해서 존재해야만 하는 것이다.
일본국헌법의 이념이야말로 「평화의 구축」이다
미국이 헌법의 제약으로 집단적자위권을 행사할 수 없는 자위대나 기지규정, 극동조항의 제약이 있는 현행 군사동맹을 「시대에
뒤떨어진 군사동맹」이라 한다면, 우리는 민중의 입장에서 「일미군사동맹 그 자체가 시대착오적인 것이다」라고 주장하지 않으면 안 된다.
일본은 안보조약파기・일미군사동맹의 해체와 더불어 동북아시아의 평화구조 구축을 아시아 여러 나라와 함께 진행해 나가는 일이야 말로
새로운 「평화의 안전체제」라고 생각한다.
나카니시는 「일본의 안전보장에 있어서……미국과의 군사협력이 근간을 이룬다」고 말하고 있지만, 「안전보장」이란 군사력만을
의미하지는 않는다. 안보는 평화의 안보를 포함한 「정치의 목적」이지 수단이 아니다. 그는 이 정치의 목적을 「군사력으로 실현한다」고
말하는 것과 마찬가지다. 게다가 침략적・전시적(戦時的)・중무장국가 미국과 말이다.
1831년 프러시아의 참모장, 칼 폰 클라우제비츠는 명저 「전쟁론」에서 다음과 같이 말하고 있다. 「전쟁이란 적을
강제하여 우리의 생각을 수행시키기 위해 사용되는 폭력행위이다. 그 행위에는 그 어떤 한계도 없다. 한 쪽의 폭력은 다른 쪽의 폭력을
낳고, 거기에서 생기는 상호작용은 이론상 그 극한에 이를 때 까지 멈추는 법이 없다.」
또한 이 전쟁이란 「단순히 정치행위일 뿐만이 아니라 정치의 도구이며, 정치적 제(諸)관계의 계속이고, 다른 수단을
통해 행하는 정치의 실행이다. 정치적 의도는 목적이고, 전쟁은 수단이며, 그리고 그 어떤 경우에라도 수단은 목적을 떠나서는 생각할
수 없다.」(1967년, 徳間書店版, KV 클라우제비츠)
나카니시가 「안보」라 일컫는 정치의 목적을 「군사협력이 근간」이라고 말할 때, 그것은 정치의 일개 수단에 지나지 않는
전쟁을 가장 근본적인 수단으로 생각하는 전쟁지상주의자・미국제국주의자의 시점이다. 군사력 만으로 「안보」를 보장할 수 없다면 「폭력은
폭력을 낳아 이론상 그 극한에 이를 때까지 멈추는 법이 없는」이라크의 비극은 그것이 아닌가? 「핵 억지력」도 단순히 핵 보유 수와
새로운 핵 개발을 겨룰 뿐이 아닌가?
미국은 7,000발이나 되는 핵탄두를 보유하여 어떻게 하겠다는 말인가?
일본의 평화헌법의 이념이야말로 세계의 평화구축의 「안보조약」임을 우리는 강조하지 않으면 안 된다. 군사력으로 무엇이든
할 수 있다고 생각한다면 크나큰 오산이다. 세계 제1의 군사력을 가진 미국이 어째서 베트남 민족에게 이기지 못했는가. 약소국가
북한이 왜 미국이나 일본의 반공군사포위망 속에서 살아남을 수 있는가를 생각해 본다면 그 이유를 알 수 있다.
주일미군의 재편을 둘러싼 논의에서 분명해진 것은, 거꾸로 말해(민중의 입장에서 말하면) 권력에 의한 법의 공동화가
존재하면서, 우리에게는 그래도 일본국헌법이라고 하는 큰 요새가 있다는 것이다. <続>
集団的自衛権〔1〕
집단적자위권이란, 군사동맹을 맺은 상대국에의 공격을 자국에의 공격으로 간주하여 제3국으로의 전쟁행위에 참전할 의무가 생긴다. 따라서
자국 군대의 해외파병(침략행위)을 합리화하는 것이다. 헌법9조 2항이 그 방어막(歯止め) 역할을 하고 있다.
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